劇団創立65周年記念

鈴木光枝追悼公演

― 劇団文化座公演127 ―

「瞽女さ、きてくんない」

 

2007年11/3(土)〜5(月) 各日 14:00開演(開場は開演の30分前です)

御料金

(全席指定/税込) ※Uシート、高校生以下は劇団でのみ取り扱い

一般5000円、友の会3500円、Uシート3500円、高校生以下2500円

会場 シアター1010(北千住駅前マルイ11F)

キャスト


舞台より

妙音講
磯節
周作、牡丹

 


瞽女唄稽古風景

※AVIファイルです(全編ほぼ10Mb)

 


 

― 劇団より ―

この『瞽女さ、きてくんない』は、十年前の劇団創立五十五周年記念公演として初演され、

その後、創立六十周年記念として再演、この度は六十五周年記念の棹尾を飾ります。

何故、私たちがこのようにこの作品に対し熱い思いを抱いているのか。それは「瞽女」に対する共感といえば良いでしょうか。

 

瞽女とは、明治から大正時代に越後地方を中心として活動していた盲目の女旅芸人のことです。

一座を組み、町や村を歌や三味線などの芸を披露して巡り、生活の糧を得ていました。

マスコミが発達していなかった当時では、娯楽であるとともに他村の情報を運ぶ貴重な存在でもありました。

しかし、時代が昭和に移り、社会が変容する中で、その姿を見ることはなくなりました。

このように瞽女という存在は、芸能の原点であるといえます。また、一座を組み、芸に励み、そして皆で支え合い、

励まし合って、道を全うしようとする姿は、劇団として集っている私たちのあるべき姿にも重なります。

また迎えてくれる人がいてこそその存在が成り立つということも同様です。それに加え、慎ましくも厳しいその生き方は、

今の日本人の生き方を問い直すことになるのではないかと思うのです。今でこそ観ていただきたい舞台です。

 

今回の公演はこの五月に亡くなった劇団前代表鈴木光枝の追悼公演とさせていただきました。

故鈴木光枝は三十五年前に上演された本作品の前身『越後瞽女日記』を、

猛特訓した三味線と鬼気迫る演技で立ち向かい、「瞽女ブーム」の先鞭をつけました。

『瞽女さ、きてくんない』でも、初演時は主役の牡丹(後年)、そして再演からはナレーター(牡丹の声)として出演しています。

今回の公演でもそのナレーションは健在です。瞽女の真髄を見るような語りで、鈴木光枝の魂が舞台に甦ることでしょう。

文化座にとって特別な思いのあるこの『瞽女さ、きてくんない』も、今回がファイナル公演となります。

佐々木愛、有賀ひろみ、 阿部敦子以下二十九名の出演者を始め、劇団の総力を結集した舞台です。

最後の機会となります。どうかお見逃しのないよう、皆様のお越しをお待ちしております。

― ものがたり ―

明治も終わりの頃、新潟県東頚城郡杉坪山日光寺において、ひとりの盲目の少女(のちの牡丹)が高田瞽女の親方・森脇ふきに拾われ瞽女としての人生を歩み始めた。厳しい戒律、特異な環境の中で瞽女として成長して行く牡丹。
 1919(大正8)年、高田の天林寺では瞽女たちの年に一度の祭ともいうべき妙音講が執り行われていた。そこへ森脇家にいたが掟を破りはなれ瞽女となったツゲが現れるが、親方のふきは冷たく突き放す。ツゲを慕っていた牡丹たちも掟の前にどうすることもできなかった。
半月後、とある漁師町を訪れたふきたち一行は、よし江という盲目の少女を貰いうける。母親と別れ瞽女となるよし江に、牡丹は幼い頃の自分を重ね合わせるのだった。その夜、瞽女宿で牡丹は幼馴染みの周作と出会う。瞽女の掟を破って夫婦の誓いを立てる二人。だがその矢先、親方のふきが倒れる。牡丹は非情の選択を迫られることとなるのだった……。
1928(大正15)年、牡丹が親方となってから7年の歳月が経ち、幼かったよし江も「名替え」し、すずと名付けられる。1944(昭和19)年、信州と越後の国境方面に旅に出た牡丹達であったが、戦況の悪化は銃後の生活にも影を落としていた。宿を断られたり米を取り上げられたりと、瞽女の生活を支えていた基盤は大きく揺らいでいたのである。村の男達が次々と兵隊に取られては姿を変えて帰還する姿にも、牡丹たちはただ祈るしかなかった。
1963(昭和38)年、東京オリンピックを翌年に控えて、日本は沸き上がっていた。豊かな生活に向かってひた走る社会に、もはや瞽女たちの居場所はなかった。そんな中で、牡丹たちは最後の旅に出る決心をする……。

― 瞽女とは ―

瞽女とは、明治から大正、昭和にかけ越後地方を中心に活動していた盲目の女旅芸人のことで、一座を組み、町や村を唄や三味線などの芸を披露して巡り、生活の糧を得ていました。
「一年のほとんどが旅で明け暮れ、目的の村に着くと<瞽女宿>という泊りつけの家に荷をおろしては、家々を門付け(瞽女宿で行われる公演の前に宣伝を兼ね、周辺の家々を回っていた習慣)し、夜になれば、村人が集まり瞽女の本領である段物や口説、民謡などをきかせ、喜捨の米や祝儀が収入となった。」(「新潟県県民百科事典」)
新潟県内には、高田瞽女・長岡瞽女の2大組織がありましたが、時代が昭和に移り、社会の変容する中で、その姿を消していきました。

盲目というハンデを背負いながら芸に励み、厳しく慎ましく、そして互いに身を寄せ合って生きていた瞽女さんたち。弱き存在であるが故に命を慈しみ、人と人との絆に依って、しかし自立して力強く生きていました。そんな瞽女さんたちの姿には、人間の美しさ、日本人の心の原点が表れていたのではないでしょうか。瞽女の存在とともに今はもう喪われてしまったそんな生き方を見つめ直すことで、欲望が肥大化し、生命が軽んじられるばかりの現在の風潮に一世紀を投じたいと思います。
鈴木光枝の鬼気迫る演技と高田瞽女最後の親方・杉本キクイさん直伝の三味線により伝説となった『越後瞽女日記』(1973〜75年)。それは斎藤真一画伯の先駆的なフィールドワーク「越後瞽女日記」を基にしたものであり、その後の瞽女ブームの先鞭を着けるものとなりました。この舞台を成長させ、劇団が総力を挙げ取り組むのが今回の『瞽女さ、きてくんない』(1997年初演)です。
滅びてしまった瞽女の芸、殊に高田瞽女の伝統は今、文化座の俳優陣にのみ受け継がれているのかも知れません。その素朴な芸と人々との関係は、日本の芸能の原点とも云えるものです。
劇団創立55周年、60周年という記念公演を飾ってきたこの舞台、今回がファイナルとなります。

 

― 劇団創立65周年と鈴木光枝 ―

劇団文化座は2007年2月で満65才となりました。

1942年2月、井上正夫演劇道場のメンバーであった演出家・故佐佐木隆、女優・故鈴木光枝らによって結成。1945年、日本の現代演劇を紹介する目的で中国東北部に渡り移動演劇を行い、そこで敗戦を迎えました。その後1年間、中国大陸での難民生活を送ります。

 創立期には日本の現代演劇史に大きな足跡を残す劇作家・三好十郎との深い結びつきによって三好作品を連続上演し、戦時下の厳しい条件のもとで演劇の良心の灯をともし続けました。以来、三好十郎作『その人を知らず』『炎の人―ゴッホ小伝』、山代巴原作『荷車の歌』、長塚節原作『土』、山崎朋子原作『サンダカン八番娼館』など、底辺に生きる人々に光を当てた作品の上演を続けます。1982(昭和57)年には水上勉作・木村光一演出『越後つついし親不知』で新生面を切り開き文化庁芸術祭大賞、ならびに佐々木愛が紀伊國屋演劇賞を受賞。1987(昭和62)年より佐々木愛が劇団代表を務めています。

『おりき』(三好十郎作)、『荷車の歌』、『サンダカン八番娼館』など財産演目の上演を続け、それらは歴史の闇に埋没しがちな人々に光を当てたもので、その活動は日本の演劇界にとっても大変貴重なものであると思います。
またその一方で絶えず新たな題材、舞台表現にも挑戦しています。ロックに青春を燃やした高校生たちに光をあてた『青春デンデケデケデケ』(芦原すなお原作)、戦前から戦後にかけての飴屋のお内儀の半生から人間の愛しさ逞しさが浮かび上がる『いろはに金米糖』(堀江安夫作)、実話に基づき20世紀という激動の時代に翻弄された英国軍人と日本人女性との純粋な愛を描く『遠い花―汝が名はピーチ・ブロッサム』(八木柊一郎作)など、充実した作品群を生み出しています。
その中で、現在全国公演を行っている作品に、浅田次郎原作による現代人の愛と勇気と再生の物語『天国までの百マイル』、アラスカ先住民の伝承に基づいた福田善之戯曲・演出によるミュージカル的作品『二人の老女の伝説』などがあります。

創立65周年記念第1弾として、敗戦時に巡演先の旧満州で味わった辛酸と演劇への情熱を描いた『冬華―演劇と青春』、第2弾として、今年生誕100年を迎えた画家・靉光を題材に、戦時下における芸術家の苦悶と情熱を描いた『眼のある風景―夢しぐれ東長崎バイフー』を上演。『瞽女さ、きてくんない』が第3弾に当たります。

 鈴木光枝は本年5月22日、88才の天寿を全うしました。彼女が終生持ち続けた弱き立場の人々への共感、それはこの『瞽女さ、きてくんない』の舞台に象徴的に表れています。文化座の真骨頂とも云うべき、また彼女がナレーションとして登場するこの舞台を通して、鈴木光枝の魂が再び甦ることでしょう。